
おいしく、
うつくしい、
食べるということ。

TEXT BY TANAKA YUKIKO
俯きがちなわたしに
顔をあげさせてくれた。
そんなおいしい場所のこと。
日差しはもう春の色に帯びてきているのに、ここ数日、頰に当たる風が冷たい。ときどき無遠慮に脇をすり抜けていく車が、乾いた埃を舞いあげる。そのたび思わず目を細める。そうして俯きがちに歩いていた。
ふと、小さな看板が目に入った。
車で通ったら見逃してしまいそうな控えめな看板に、チョークで「日替わり弁当あります」。
顔を上げると、駐車場の奥に小さな木箱のような建物が見えた。白い暖簾が揺れている。そこには“菜のだ Farm×Food”と書かれていた。
「なのだ?」
つい小さく声が漏れた。時計の針はもう少しで13時半になろうとしている。今年に入って大きな案件が重なり、瞬く間に時間が過ぎていく。昨日の帰りも遅かったし、そういえば今日は、朝から食事らしい食事をとっていない。
そう思うと途端にお腹が空いてくるような気がした。
建物脇にある入り口に向かう。少しだけ逡巡したが思い切って引き戸を引くと、一拍置いて「こんにちは!」と明るい女性の声が迎えてくれた。
足を踏み入れた瞬間、やわらかなぬくもりに包まれる。店内はこぢんまりとしていた。左手にカウンター席、右手にはテーブル席。落ち着いた白壁に無垢の木が良いバランスで使われている。壁には近くの催し物のチラシが貼られ、飾り棚にはショップカード、子ども向けの絵本まで置かれている。
正面に視線を戻すと小さなショーケースがあって、惣菜がいくつか並んでいた。カウンターの上には週替わりランチの文字。
どうやら店内で食事をすることもできるらしい。私はそのランチを頼んで、カウンター席に腰を下ろした。入り口からはわからなかったが、テーブルを回り込んだ向こう側にも向かい合うような形で席があって、男性が一人座っていた。けれど目線の高さに板が貼られていて気にならない。
窓に目を向けると、差し込むキラキラしたと日差しは紛れもなく春のものだ。外の風は冷たいのに、ここはひと足先に春を知っているようだ。
しばらくすると、ランチが運ばれてきた。ワンプレートに、春巻き、根菜とひじきの煮物、重ね煮の肉じゃが、ほうれん草と豆腐のツナマヨサラダなどが彩よく盛り付けられている。味噌汁にデザートのプリンまで。
これは思っていたよりボリュームがある!
箸を手にどれから食べようと考えていると、
「よろしければ食前酢からどうぞ。食前に飲むと血糖値の上昇を緩やかにしてくれるんですよ」とやさしく声をかけられた。
すすめられた梅の食前酢を口に含むと、青い梅の香りと酸味が広がった。眠っていた内臓を刺激する。


ああもう待ちきれない。
つい先程まで食事のことなどすっかり忘れて仕事のことばかり考えていたのに、今はもう目の前の食事を食べたくてたまらない。
はやる気持ちを抑えながら、まずはひじきの煮物をひとくち。そこでまたハッとした。もちろんおいしい。けれど、それだけじゃない。甘みも塩加減も、丸みを帯びている。尖ったところがなく、口の中でやさしく調和し体に溶けていくような感覚を覚えた。
咀嚼するごとに、身体がよろんでいる。飲み込むたびに、胸の奥がほぐれていく。気づけば夢中で食べていた。
残るは最後のプリンだけになってしまった。それを大事に口に運ぶ。なめらかな舌触り、とろりと濃いカラメルの苦味。
そうしている間にも、窓からは絶えず春の光が降り注ぐ。キッチンからは揚げ物を揚げる音が聞こえ、香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
五感すべてで味わう、これこそが食事の醍醐味なのかもしれない。


唯一、時間の感覚だけが失われて、なんだかずっとここにいるような気持ちになる。いつの間にか先ほどの客は帰ったようで、次の人に入れ替わっていた。
お腹は満たされた。でもこのまま席を立ってしまうのはなんだか惜しい。そんな気持ちでいると、キッチンから店の人が出てきた。
「居心地のいいお店ですね」
すると女性はにこやかだった表情をさらに明るくして
「ありがとうございます!そう言っていただけると、すごくうれしいです!」
ランチの波が落ち着いたからか、会話が弾む。この小柄な女性が店主のようだ。
「世代を問わずいろんな方に食べてほしくて始めたんです。商売をやるにはターゲットを絞った方がいいっていうのはわかってるんですけど、どうしてもそこを大切にしたくって」
まっすぐな瞳だった。この店の包み込むようなやさしさは、彼女そのものなんだろうと思った。
「建物も、地元の設計事務所にお願いして、なるべく素朴で、気取らないように考えてもらったんですよ」
彼女の想いと、それを受け取ってくれる人がいてできた店というわけだ。
気づけば、ずいぶん長居をしてしまった。
「ごちそうさまでした」
引き戸を開け、店を出ようとすると、
「ありがとうございました! いってらっしゃい!」
と声がかかる。
振り返ると、笑顔の店主がぺこりと頭を下げていた。そうか、またここに帰ってこよう。
忙しく働くのもいい、たまには落ち込むこともある。けれど、ときにはこんな食事をして、心と体をいたわろう。
店を出ると、風はまだ埃っぽいけれど、さっきよりやわらいでいる。顔を少し上げて歩く。
春は、もうすぐそこだ。

I N F O R M A T I O N


菜のだ Farm×Food
2022年、食の循環をテーマとした新しい飲食店としてオープン。さまざまな事情で廃棄されてしまう野菜や卵、肉などを使った料理やスイーツを提供している。イマージでは設計施工を担当。店主石原さんの思いを汲み取った素朴でナチュラルな建物が完成した。
〒392-0004 長野県茅野市仲町16-4061
tel. 0266-75-2566
https://www.nanoda831.com