文字を持たぬ時代から現代へ
黒耀石の輝きが呼び起こすシビックプライド

[VOL.06]
— お話を伺ったヒト。—
茅野市尖石縄文考古館|山科哲さん

TEXT BY TANAKA YUKIKO


PROLOGUE

茅野ブランドを牽引するものとして近年さらに認知度を高めている「縄文」。茅野市をはじめとした八ヶ岳周辺には言わずもがな縄文遺跡が数多く点在している。今回はそうした遺跡からの出土品を数多く収蔵する茅野市尖石縄文考古館を訪れた。


茅野市尖石縄文考古館は「国宝縄文のビーナス」や「国宝仮面の女神」を有する市営の博物館で、コロナ禍前には年間来場者5万人と、地方の博物館としては成功例と称されている。取材に訪れた日も冷たい雨が降りしきる平日にも関わらず県外ナンバーの車が駐車場を埋め尽くしていた。
 いま、土器土偶類と並んで密かに注目を集めているのが黒耀石だ。黒耀石は溶岩が急激に冷やされることで生成されるガラス質の岩石で、比較的加工が簡単なため、金属器が出回る以前の旧石器時代後期から縄文・弥生時代にまで、矢じりやナイフとして広く使用されていた。 霧ヶ峰周辺から出土する黒耀石は質が高く、東日本から東北、遠くは北海道の縄文遺跡からも見つかっている。

 「八ヶ岳一体、特に霧ヶ峰は当時黒耀石の一大産地でした。黒耀石は加工をする際にたくさんのかけらが出ますが、他の出土地域からはそれらが見つかっていません。霧ヶ峰のふもとに位置する茅野市米沢地区には縄文時代の集落跡があり、そこには加工の際に出る破片や、ストックしてあったと思われる黒耀石の塊が他と比べて桁違いに多く出土していることから、八ヶ岳に住む人々が加工し製品になったものを他地域に運んだのだろうと考えられています」

 そう話してくれたのは学芸員の山科哲さんだ。

 「遠方とも直接やりとりしていたのか、バケツリレー式に遠くまで伝わっていったのかまではまだわかっていません。また何かの対価として運ばれたのか、またはポトラッチ※のようなものであったのかという点も定かではありません。しかし日本の古い遺跡からは大きな争いの形跡が見られないことから、大きな殺戮や奴隷的な制度はなかったと考えられ、返礼や対価を要するポトラッチや交易というよりは贈り物としての意味合いが強かったのではないかと考えられてもいます」

※ポトラッチ…「贈り物」を語源とする、北アメリカ大陸の北西部海岸沿いに居住する先住民族の重要な固有文化。誕生、婚姻、葬式、相続などさまざまな機会に、主催者は盛大な宴を催し贈答品を配る。招待客は後日それ以上に盛大な宴を催さねばならず失敗すると地位を失墜する。財産を介した戦い。

最古の信州ブランド

さらに八ヶ岳周辺の遺跡からは黒耀石の破片とともに、分厚くいびつな不恰好な「下手な矢じり」がいくつも見つかっている。これは教育課程の未熟な職人が作った失敗作と考えられていて、現在考古館の展示でも実際に見ることができる。このことから、当時の人々が一定の基準を持ってものづくりと向き合い、技術を伝承していたことがわかる。なんとなく現代の諏訪人のものづくりの精神にも通ずるのを感じないだろか。
また黒耀石が日本各地の遺跡から見つかる反面、新潟県産のヒスイや千葉県産のコハクなどが八ヶ岳の縄文遺跡からは発見されている。黒耀石が外に出ていくばかりではなく、各地の貴重な物資が八ヶ岳に集まっていたのだ。
「どうもそうした各地の物資がいったんこの地域に集まった後、ここからまた別の地へと再配布されているようなのです。よく八ヶ岳周辺を縄文の銀座などと呼びますが、もしかしたら本当に当時は日本の中心であったのかもしれません」
黒耀石とその加工技術が各地から求められ、贈り物が集まりそしてまた送り出されていく。黒耀石は最古の信州ブランドと言えるのかもしれない。
縄文の人たちは文字を持たない。しかし最近の研究では同じホモ・サピエンスである彼らの脳の構造は現在の私たちとほとんど違いはないとされていて、さらにその先祖が人類発祥の地アフリカを出るときにはすでになんらかの言語を獲得していたとも考えられてる。縄文に生きる彼らも当然言語を持ち、技術や歴史を子孫に語り継いでいたのだろう。

自然への畏怖が現代へと

縄文の人々は雄大な八ヶ岳を見上げ、恵みを求めて森に分け入り生活を営んでいた。黒耀石もその恵みの一つだったというわけだ。縄文の人々は黒耀石の輝きをどのように感じただろうか。
自然がより直接的に影響する生活の中では、こうした異質な輝きはより崇高に見えただろう。精神世界と生活との境目はいまよりも曖昧で密接に混ざり合っていたであろうことは想像に難くない。そうした自然への信仰心や畏怖が巨石信仰、巨木信仰につながり、現在まで続く諏訪信仰や御柱祭などの礎となったのではないか。すると御柱祭に歓喜する諏訪人の血は間違いなく縄文から連綿と受け継がれたものなのではと妄想はふくらむ。
八ヶ岳周辺の縄文文化は、縄文のビーナスの時期に最盛期を迎えたが、仮面のビーナスの時代には急激に人口を減らしていった。その後さらに人口は減り続け、寒冷化のためかまた別の要因のためかはわからないが、人々は山を降り諏訪の平に移り住んでいったと考えられているという。
「地元に住む人にとって、ここに縄文遺跡があることは当たり前になりすぎていて、それ以上特段注目すべきことではないように思われていると思います。しかし考古学の見地とは別に、住民が市井の研究者として太古の時代に思いを馳せ、想像し、自分たちのルーツを辿ることはとても意義のあることです。文字のない時代への誇りは、いまここに生きる人々にも何かを投じてくれるのではないでしょうか」

茅野市尖石縄文考古館
〒391-0213 長野県茅野市豊平4734-132
TEL. 0266-76-2270

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